不登校だった俺がどんな大人になったか。
12歳から不登校だった僕の現在
【中学時代】
10歳の頃、父親が亡くなった。
12歳くらいになると、だんだんと母親は働く時間が増え、朝早く帰りも遅い生活になった。
元々学校に通うのは面倒だと思っていたけど、朝学校に行くのを嫌がっていても母親は仕事に行く時間になってしまう。
ただでさえ忙しいのでだんだん俺に意見できる時間も減っていき、学校に通わなくなってしまう。
母親もこのままではだめだと思い、また父の分も厳しくしなくてはと思ったのか、強く学校に行けと言われた。
しかしその頃はもう2週間とか1カ月学校に行ってなかったので、もうみんなに合わせる顔がないと、学校に行くのが嫌でたまらなくなっていた。
当時の俺は学校が嫌というより久しぶりにみんなに会うのが怖いって感情が強かった。
そのまま親の意見を退け、小学校の卒業式になった。卒業式も参加しなかった。
学校に行きたい気持ちはあったので、勇気を振り絞って中学生の入学式に参加した。
みんな快く迎え入れてくれた。
そのまま1カ月2か月と中学に通っていたが、当時所属したサッカー部に通う元気がなく、1カ月ほどして遅れて部活に顔を出した。
そこで監督と小さなことで揉めてしまい、嫌だなぁと思っていた。
その後、中学の授業が本格的に始まったあたりで英語の先生が言った。
「これからは英語の量が小学生の頃と桁違いに増える、乗り遅れないようにしっかり復習する事」
俺は「なんで英語なんて勉強しないといけないんだ」と思い、友達に「英語なんてだるいよな、さぼろう」と話したが
みんなまじめだったので「いや、ついていかないとまずいよ」と必死で勉強についていこうとしてると感じた。
俺ははぐれ物なのかぁ。と自負しながら中学生活をモヤモヤした気持ちで過ごしていた夏のある日
プールの時間にやる気がなく「気分が悪いので見学します」と伝え、そのままプールから抜け出してとぼとぼと家に帰ってから1日も中学に通う事はなかった。
今更中学に戻れないという気持ちと、勉強についていく気力がない事が原因だったと今考えてみれば思う。
【高校入学】
・思考力が身につく
・自分の考えが
中学に通ったのは3か月程度なので、出席日数も足りず普通科の高校には進学できないと言われたが
もう俺は学校に通えないよ。ってことで年に4回の通学で卒業できる高校へと進学した。
学校にも通えない、友達に会わせる顔もない、地元にでばったり遭遇したらみんなどんな顔をするだろう、そんな不安がストレスになり家庭環境も最悪になった。
こんな家にいたら俺自身が大変なことをしてしまう、そう思って、一人暮らししたいと母に伝えた。
母も手が付けれない子供だったので、高校1年から一人暮らしをすることになった。
アパートに引っ越し、ご飯を買いに行こうと思ったとき、外に出るのが怖い。そんな感情に襲われた。
まったく理由もわからない、俺を知ってる人なんてこの辺にはいないし、心配する事なんて何もないとわかっていても怖い。
近所のコンビニに行くのも怖く、何も食べないで数日を過ごした。
数日後、さすがに何か食べないとまずいと思い、人が殆どいない夜中の3時くらいにコンビニに行き、生姜焼きとハンバーグをたくさん買ってきた。
夜中にコンビニに行き食材を買う生活を過ごした。
コンビニに行くのも怖い、昼間は外に出れないという自分のふがいなさにストレスを感じながら半年くらいしたとき、ふと「ここ半年くらい言葉を喋ってないな」と気づいた。
声を出そうと思っても上手く出せない。
このあたりで精神的に限界に近づいていた。
そして同時に「学校に行って友達と普通の高校生活を送りたい」と強く思うようになった。
高校1年生の12月ころから転入の事を考え、2月に通学型の通信制高校に転入した。
寮に入れば手っ取り早く友達が出来ると思う入寮したが、初日に寮生に挨拶しようとしたとき、うまく言葉が出ず、寮生にも睨まれたように感じてしまい
その足で寮を出て、線路沿いをとぼとぼ歩きだした。
道の先に漫画喫茶があったのでそこで時間をつぶしていた。
寮に戻るのも嫌だったのでホテルに宿泊し、母親に電話した。
「一回家に帰る」と。
転入手続きは完了していたので、一人暮らしでも良いから学校に通いなさいと言われ
また一人暮らしを始める事になる。
今日は行こう今日は行こうと思ってるうちに3か月がたち、俺は何でこんな何もできないんだろうと、また大きなストレスに襲われる。
俺はもうだめなんだ。親にも先生にも迷惑をかけるし、自分がやりたいと思ったことも達成できない。
どこを向いても大きな壁が立ちはだかってるような気がして、絶望した。
「こんな奴死んだほうが良い」「生きる価値がない」と思い、寝る前に手を合わせ「神様、もう終わりにしてください、本気です」と真剣に唱えた事もあった。
それでも朝はきてまた同じ生活が始まる。
もう無理だと思い後先を考えるのもやめ、学校に行こうとさえしなくなったころ、完全なうつ病になった。
トイレ以外動かない、動かない事にも何とも思わないというか思えない、考えられない。
思考の体力が殆どなくなってしまい、無になっていく事を感じながら時間だけが過ぎる。
こんな日々が笑い話にできる日が来るなら今すぐ来てほしい、と思いながら時間だけが過ぎた。
そんな中少し回復したタイミングで何とかコンビニでバイトを始めた。
そこは病院に隣接したコンビニだったのだが、そこの看護師さんと仲良くなり、外に連れ出してくれる人が見つかった。
外に出してくれる人がいたおかげでうつ病は回復していき、一人だったので行けなかったご飯屋さんやお店に連れて行ってもらった。
人の力は偉大だと実感しながら高校3年生まで過ごす。
高校は通学しなかったが、何とか卒業資格は取れた。
高校3年の冬に実家に帰ると母に「大学には行こう」と言われ大学に進学する事になった。
【大学時代】
大学に入学し4月の初日。3日間のオリエンテーションがあった。
初日は行きたくなくて行かず、二日目も行きたくなくて行かなかった。三日目も。
気づいたらまた3か月以上たち、先生と親を困らせた。
何も変わってないなと思い決意した。
「薬物をやろう」
薬物を摂取すれば怖い気持ちも吹き飛んで登校できるはずだ。
1週間くらいすれば慣れて薬物がなくても登校できるようになると思った。
勇気を出して薬物を買いに行った。
何度か試してみて、怖い気持ちがなくなるような感覚はなかったが物は試しと、登校前に摂取し、学校に行った。
学校につくと100人近い大学生たちが学校に向かい歩いている。
それを見て怖くなり車から降りれずに家に戻ってしまった。
もっと摂取しなくちゃと思い量を増やしていたある日、作用が強すぎて頭が狂った。
強烈な吐き気、嗚咽を繰り返し、今が何時でここがどこなのかもわからない。嗚咽しすぎて血を吐き、舌が丸まってのどに詰まり窒息しそうになった。
「このままでは死ぬ」と思い親に連絡した。
「死ぬかもしれない、それかもう死んでるのかもしれない、ありがとう、ごめん」
毎秒悪化する作用と死への焦りで救急車を呼んだ。
1日点滴を打って何とか落ち着いた。
この経緯を親に話したところ、親は泣きそうな声で「ごめんね気づいてあげれなくて、大学辞めなさい」と言った。
この日から学校に通わなくてはいけないというプレッシャーから解放され、地元の友達と遊びながら楽しい毎日を送れるようになった。
自分のペースでバイトを始め、夢を持ち就職したり、成長意欲が増していき、今では自分と同じような経験をしてほしくないという気持ちと
自分にしか助けられない不登校生徒やフリーターの人を助けたいと、会社を設立する運びになった。
そんな俺が今思うのは、学校に行くことが正義でそれ以外の事は認められないなんて認識はいち早く捨てなくてはいけない。
学校に行かなくても人は成長するし、色んな稼ぎ方もある。不登校でも就職先はいくらでもある。
子供の多様性を認めて柔軟に将来への道筋を作らなくてはいつまでも不幸なままだし、時代的にとても勿体ない。
そんな柔軟な将来への道筋を作り、多くの不登校生徒を救える事業を日々改善しながら展開するため日々精進しています。